この地にはかつて相模国府の港があった
1887(明20)年に東海道本線国府津駅が開業
翌、明治21年に小田原、湯本への小田原馬車鉄道が開業すると
国府津駅は東京から箱根方面への乗換駅となった
さらに翌年の明治22年に東海道本線が御殿場経由で全通すると
駅に急勾配を越えるのための増結機関車の機関庫が設置され
駅は増結作業のため優等列車が停車し交通の要として発展することとなった
海に臨む温暖な国府津は避暑避寒の地として
大隈重信や大鳥圭介、加藤泰秋
また、徳川慶喜は大鳥別荘を、西園寺公望は加藤別荘に滞在するなど
華族や政財界要人が別荘を構え
黄熱病の研究で知られる野口英世(1876〜1928)と日本医科大の前身の「済生(さいせい)学舎」で学んだ
小田原市国府津の医師、和仁真一さん(1877〜1966)が
晩年の徳川慶喜を往診していた事でも有名な地である
足柄下郡国府津村から国府津町と変わる大正13年
前年の関東大震災で村内に大きな被害を出した復興資金の捻出の為
小田原の谷津と国府津での競馬場開催の為の
一年間に及ぶ誘致合戦が始まった
1925(大14)年6月:足柄下郡の第1回競馬が国府津に設けられた馬場で4日間開催された
その後
小田原の谷津の花岳競馬場では
その秋の10月1日から3間開催された
いずれも予想以上の盛況であった
国府津の馬場では予想を越え9万円以上の収益をあげたが、小田原開催はさらにそれを上回る実績をあげた
第1回開催では3日間で6万人もの観客が小田原の競馬に沸き
馬券は1枚1円(そのころのアルバイト従業員の賃金が日当約
50銭)と高価であったが
競馬場は熱気で包まれ
その雰囲気は、まるでお祭りのようだったという
1926(大15)年:下郡畜産組合は競馬場は小田原の谷津、国府津には屠殺場を設けることで決着を着けた
神奈川県小田原市国府津
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